私は何味だろうか。
私がパイだとしたら、私の味は本当に私の味でしょうか。
私のパイは九割が親のパイでできている。
残りの一割がその他の家族や学校の大人や友達のパイでできている。
私の味とは何味なのだろうか。
私は周囲の人間の一部を寄せ合わせた、不器用なパッチワークのようにできている。
なにが私なのか。
私など誰かの寄せ合わせであって、私などいない。
でも、私は私のパイの味が親の味と違うことを知っている。
つまり、受け取ってきたパイはそのままじゃなくて、混ざっている。
私が咀嚼して私の味にしている。
親子であろうと、別人である。
そして、たくさんのパイを受け取れば受け取るほど味が複雑化し、味に奥行きが出るのだ。
なにもパイを受け取り、美味しくなるのは私だけではない。
私がパイを受け取るように、相手もパイを受けっとっている。
つまり、出会いはパイの交換であり、それぞれのパイの複雑化だ。
うまいパイになるためには、まず、パイを差し出さなければならない。
美味しくないかもしれないが、それが誰かのパイのおいしさの糧になることを願い、私は私のパイを差し出したい。
そして、いつかあなたのパイで私の味を完成させたい。
他人味の私が、いつか自分味と胸を張れるように。
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